私の疎開体験記(當山 全弘) 浦添国民学校 第3班

公開日 2016年04月13日

最終更新日 2016年08月30日

~ 岩脇村は、命の恩人です ~

 

     氏 名 : 當山 全弘 (疎開当時 11歳)

      出 身 : 大平(戦前の安波茶)

      所 属 : 浦添国民学校 第3班 

      疎開先 : 宮崎県岩脇村 (現日向市)  平岩国民学校 

 私が宮崎県岩脇村に疎開をしたのは、浦添国民学校の4年生、11歳のときでした。日本がもうすぐ勝つので、それまでの間、疎開をするように親に言われたからです。幼かった私には、なぜ、疎開をするのかよく分かりませんでした。日本が負けたという放送はなかったし、戦争が沖縄に迫っているということも、よく分かりませんでした。その意味を理解するようになったのは、戦後、大人になってからです。

 疎開したときは、那覇が10・10空襲で焼かれる前でした。沖縄にはたくさんの兵隊が駐屯していました。当時の沖縄は戦争モードで、日本軍が連勝をしているという報道から、子どもながらにお祝いムードだと感じていたことを記憶しています。しかし、幼かった私は、だんだん戦況が悪化し、戦の波が沖縄に迫っていることを知りませんでした。そんな中、親が「日本は戦争に必ず勝つから、しばらくの間大和(ヤマト)に行っておきなさい」と言い、疎開することが決まりました。

 その当時の家族構成は、両親、祖母、妹のキク(8歳)、弟の全哲(6歳)、妹のとしこ(4歳)の7人家族でした。私の家族から疎開したのは私一人です。今になって考えてみると、「戦争の世の中なので、男の子だけでも助かってほしい」という親心だったのだと思います。私の父は浦添村役場に勤めていたので、もしかしたら戦争の情報が早かったかもしれません。

 

 疎開をするとき、持っていく布団がなかったので、大阪から引き揚げた親戚のものを借りて持っていった覚えがあります。昭和19年の8月27日に本願寺に集合して、その数日後にみんなで船に乗りこみました。私たち浦添国民学校からは、引率の先生方を合わせて130人が出発しました。出発するとき、私たちの船の前後に、護衛のための駆逐艦がついていました。船内では、浮き袋を渡されて、私たちは甲板で寝ました。

 私は第3班だったので、平岩国民学校に疎開しました。平岩国民学校がある岩脇村では、幼稚園を改造した宿舎に泊まりました。学校に通い、宮崎の子どもたちと一緒に勉強しました。勉強のほか、一緒に栗拾いをした記憶があります。下級生だったので、記憶はあまりありませんが、沖縄の子どもたちに対するいじめがあったと思います。沖縄だからとバカにされることもありました。

 

 宮崎では、冬に大雪が降りました。体験したことがない大雪でした。初めて見る雪にみんなはしゃいで、雪合戦をたくさんしました。でも、霜焼けがとても大変でした。沖縄を出発したときは、宮崎がこんなに寒いとは思わなかったので、夏服しか持っていませんでした。寒くて寒くて、とても辛かったです。子どもは皮膚が柔らかいので、大雪で腫れあがって、とても痛かったです。足は霜焼けでひび割れて大変でした。

 疎開先では、寒さだけではなく、食べ物にも困りました。近所の方々から差し入れをしていただきましたが、食べ盛りの子どもたちなので、満腹になることはありませんでした。国からの配給もありましたが、それだけでは全然足りません。

 食事をする前は、必ず「はしとらば 天地御代のおんめぐみ 君と親とのご恩あじわえ」と皆で唱えました。それから食事です。よく食べたのは、芋です。テーブルには、上級生には大きな芋、下級生には小さな芋が配られました。それだけでは足りず、ひもじさのために上級生が下級生の芋を取り上げることもありました。私も芋を取られたことがあります。体格の大きな上級生は、食欲も旺盛だったのでしょう。みんな、ひもじさには耐えられなかったのです。小学校4年生だった私は、栄養不足のため成長が止まってしまい、身長は伸びず、小さいままでした。それだけ食料事情は悪かったのです。あまりのひもじさに耐えかねて、人の畑から柿を盗ってしまい怒られたことがあります。泥棒でもしないと、お腹が空いてどうしようもありませんでした。

少しでも食料を得ようと、畑を耕しました。学校からもどると、自給自足のための開墾作業です。麦、芋、野菜などを作りました。田植えの手伝いをしたこともあります。宿舎は海が近かったので、塩たきをして、その塩を物々交換しながら、食べ物を手に入れて、飢えをしのぎました。宮崎の方々からの寄付も大変ありがたかったです。食べ物や生活用品などの差し入れで、とても助けられました。これでなんとか、ぎりぎりですが生活することができました。

学童疎開児童の中で、シラミが発生しました。頭はもちろん、洋服の縫い目にもシラミがいました。洋服をお湯で沸騰させても、シラミはいなくなりませんでした。

 

 疎開先でも空襲警報がありました。私たちは、宿舎近くの山を借りて、茂みの中に30人ぐらい入れる防空壕を作りました。空襲警報が鳴ると、その都度、防空壕に避難しなければならなりませんが、夜中のときは皆眠たいのです。ある日、空襲警報が鳴ったので、防空壕に避難しました。警報が解除されたので部屋に戻りました。皆が眠った頃、二度目の空襲警報がなりました。あまりの眠たさの上に、外は大雨だったので、防空壕へは避難しませんでした。翌日、防空壕を見に行くと、大雨の影響で落盤してペシャンコにつぶれていました。昨日、防空壕に避難していたら、もしかすると皆死んでいたかもしれないと思いました。九死に一生を得たと感じました。

 沖縄の情報は、先生からのニュースで少し知っていて、沖縄は玉砕だと聞いていました。
 玉音放送は皆で聞きました。皆でひざまずきをして、涙を流しながら聞いたのを覚えています。その時に、日本は負けたのだと実感しました。沖縄が玉砕して誰も残っていないなら、沖縄のために早く戻らなければと感じていました。

 沖縄に帰ると決まった時、支度するためのお金をもらいました。そのお金で、宮崎市で鍋などの日用品を買いました。沖縄にはもう何も残っていないと思ったので、宮崎で買って沖縄に持って帰ろうと思ったのです。

 

 沖縄に戻ると、自宅はなくなっていました。自宅だけでなく、何も残っていませんでした。私は、沖縄戦が激化する前に沖縄を離れたので、沖縄戦のことは分かりません。それでも、全部火炎放射器で焼かれて何も残っていない自宅の跡を見ると戦争の悲惨さを思い知りました。

 沖縄に戻ったとき、残っていた私の家族は、父と妹のキクと弟の全哲だけでした。沖縄に残っていた私の家族は、祖母を自宅に残して北部に疎開していました。祖母は高齢で動けなかったため、一緒に疎開することができなかったのです。自宅に残った祖母は、沖縄戦で亡くなりました。母は妊娠中でしたが、疎開先のやんばるで亡くなったそうです。母の遺骨は父が持ち帰っていました。一番下の妹のトシコは、収容所で栄養失調で亡くなっていました。母や妹、そして祖母が亡くなったということを聞いて、幼いながらに戦争が憎いと思いました。私が母と最期に会ったのは、11歳で疎開をしたときです。そのときに分かれてから、一度も会うことはありませんでした。一枚の写真さえ残っていません。それが今でも心残りです。

 

 戦争は恐ろしいものです。全てを奪ってしまいます。戦争が起こらなければ、疎開というものもありませんでした。大人になり、初めて疎開の意味を理解することができました。戦争は二度と起こしてはならないのです。

 疎開先では、寒さや寂しさ、そして、ひもじさで辛い思いをしました。しかし、唯一の地上戦があった沖縄戦のことを思うと、疎開をしたから命を繋ぐことができたのだと思います。

 岩脇村は、命の恩人です。沖縄に残っていたら、私も死んでしまっていたかもしれません。疎開して、岩脇村の方や宮崎の方から食べ物などを分けてもらって生き延びることができました。その感謝の気持ちは、今でも忘れることはありません。

 

 戦後、疎開したメンバーと交流会を作りました。1944年8月27日に学童疎開のため一行が集合したことから、交流会の名前は「27日会」としました。1997年(平成9年)には、疎開を忘れないために、宮崎の疎開受け入れ先と浦添・日向交流会を立ち上げ、翌年には学童疎開の記念碑の建立に合意しました。この「学童集団疎開祈念之碑」は日向市の市政施行50年に合わせて、2001年(平成13年)に完成しました。これから先、私たちのような学童疎開児童を作らないように、戦争遺族を作らないようにと願いを込めて建立した記念碑です。

 今は、浦添市の平和交流事業で、中学生に疎開について話する機会があります。子どもたちが疎開について学んで、その足跡が引き継がれていくのは大変うれしいことです。二度と戦争が起きないよう、そして学童疎開がないよう、戦争を風化させないことが大切です。

 

 終戦から70年が経過し、戦争体験者は高齢化しています。私も80歳を超えました。私たちのような疎開体験者が直接語ることができなくなったときでも、平和を繋いでいけるよう、若い人たちが平和について学び、その尊さを感じてほしいです。

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