前田高地の戦闘について

記事番号: 1-9235

公開日 2022年06月22日

前田高地の戦闘について

・前田高地とは
前田高地は浦添城跡の一帯の丘陵を指します。浦添市で最も高い場所で標高は約148mあり、谷底低地からの比高差は90mほどになります。鋭く切り立ったその姿から、米軍は前田高地一帯を「ハクソー・リッジ」と名付けました。また、南東側に地元でワカリジー(為朝岩)と呼ばれる高さ約13mの岩がありますが、米軍はピアスの穴開け器具に形容して「ニードル・ロック」と呼んでいました。

・前田高地での戦闘
1945年4月1日、米軍が沖縄本島の読谷・嘉手納・北谷に上陸しました。宜野湾の嘉数高地などで戦闘が繰り広げられていましたが、第一線から後退した日本軍の部隊が仲間・前田へ配備されます。4月25日、米軍は前田高地への攻撃を開始します。米軍は、まず高地頂上を奪おうと試みますが、頂上に立った所で日本軍の攻撃を受け、数分で18名が犠牲となりました。そこから日本軍との高地頂上の争奪戦が繰り広げられます。米軍は日本軍との戦闘で多くの死傷者を出しました。
一方、日本軍は洞窟に陣地を築いて、白兵戦や夜間攻撃などを行いますが、米軍の猛攻により多大な損害が出ました。頂上付近を占拠した米軍は、日本軍の洞窟の入口を破壊して閉じ込め、追い詰めていきます。5月6日に前田高地は、米軍により完全に制圧され、日本軍は撤退することになります。「ありったけの地獄を一つにまとめた」と表現されることから、いかに凄惨な戦いであったかが感じられます。

・前田高地の戦闘のその後
 前田高地での戦いが過ぎた後も両軍の激戦は続きました。那覇のシュガーローフなどで戦闘が繰り広げられ、日本軍司令部は首里から摩文仁へ移動することになりますが、米軍も部隊を南へ進攻させます。そして、6月23日に牛島軍司令官らの自決により日本軍は組織的抵抗を終えました。

前田高地での戦闘の様子

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